「いいぞ」を待ってる犬の姿勢で

佐藤ゆうこ の 短歌のことをかく ページ です

(感想)肉体という勇気を思う/『展開図』小島なお

 ぐいぐいと流れていく時間、親しい人に流れていく時間と自分のなかで流れていく時間の乖離、それをうちからうちへ、うちからそとへ描くことで、自分のいる場所を確かめているような歌たちだと感じた。

 

  いま祖父は流氷となり離れゆく見えなくなるまで見つめていたり

  ラコステのポロシャツを着て祖父がいる遺影 七月の光も見える

  白芙蓉みたいな下着 妊れる日々を終えたる妹は捨つ

  椿すでに花期に飽きつつ妹は妹の子を育てている冬

  友に似るちいさい人と生きる友 錘のように花びらは落つ

  ベランダに風 遠く住むいもうとの家族は持てり海辺の時間

 

 祖父との死別、妹の妊娠と出産、父は祖父となり、母は樹木葬を考えたり、祖母は遺影を選んだりする。友人にも子が生まれ、自分は「学生のつづき」のような日を生きている。親しい他者に流れる時間と自身に流れる時間とには乖離がある。

 

  百合ひらき枯れて捨てられまた元の時間が戻る九月の仏間

  ふりだしに戻る、のような秋のそら鞄を提げてバスを待つとき

  開けばそこに過去の自分がいるようでエレベーターに吸われゆくなり

  酒飲んでバイクに乗って事故死した知人に二十歳の雪いくたびも

  ひと冬をかけた手品のようだった窓の景より三棟が消ゆ

 

 家族や友人に流れる時間に対し、主体の時間はしばしば同じところを回ったり、止まったりする。それはあくまでも瞬間的に、エレベーターやバス待ち、解体された建物に気づく時におこる。

 

  雪を踏むローファーの脚後ろから見ている自分を椿と気づく

  自分こそ誰かの記憶かもしれず椿の奥に講堂がある

  またひとつ朝顔咲いてこの朝を覗き穴から見ているだれか

 

 過去の回想のなかの自分が今の自分に見られている感覚、今の自分が未来の自分に見られている感覚、過去と今を行ったり来たり浮遊感のある時間の流れを感じる。

 

  片足のない鳩のいた野草園 肉体という勇気を思う

  この日々もいつか幻まぼろしは忘れてしまう花火ではない

  悪いことじゃないよ時間をこなすのは杭の頭に順に触れゆく

  泣くたびに体が太る感覚のむかしの夏はやさしかったな

 

 その時間と格闘するように、身体とともに短歌が歌われていく。三首目、「心の領地」という居合を習いはじめて一年半がたった主体による歌の一連より。刀身や身体の動きに集中した歌のあいだに、主体の心がどこかに定まりつつあるような歌が歌われている。

 

  この雨は私の外に降る雨と思えば駅も濡れはじめたり

  あ、これは 予感兆せど何もないままに終わり冬は引力

  疲れるよ偶然を願いすぎるのはガラスコップにゆがむてのひら

  これはいつの視界だろうか誰にも似て誰にも似ないみどりごを抱き

 

 特に印象に残った歌を引いた。個人的に何度も抱いたことのある感覚に重なる。自分の意識が現実の状況に追いつく感覚(一首目)、ぼんやりとしたみどりごを夢で抱く感覚(四首目)、この感覚に覚えがあるのは私だけかもしれないが、そうではないと思いたい。

 

 

(補足という名の言い訳)

もっと整理して描くつもりだったが、解釈が若干行きすぎているというか、自分に寄せすぎているような読み方をしてしまったかもしれない。でも、自分の状況に重ねて読んだとき、「自分がいま苦しんでいるのはこういうことなんだ」と思わせてくれる歌で、そういう歌に今会えてよかったと思ったのです。

(感想)軍手ごしに触れて昇温確かめる/『工場』奥村知世

  軍手ごしに触れて昇温確かめる子どもの額に手をやるように

 

 作者が職場とする工場で働いているところの一場面。どのような製品が製造されている工場なのか、歌からうかがい知ることはできないが、金型やフレコンなどなど、工場の様々なツールが描かれている。子どもの熱から体調をさぐるように、軍手ごしでも工場の機器に触れる手のひらに、じっと意識を集中している。

 

www.kankanbou.com

 

 第六十回短歌研究新人賞の発表(平成29年9月号)で候補作となった「臨時記号」を読んで以来、気になっていた人の歌集だったので、すぐに読んだ。同賞のプロフィールは、所属だけでなく職業の記載もあるのだけど、このとき「開発研究員」と書いてあった点に少し驚いた記憶がある。

 

  油圧式フォークリフトはカクカクと冬の寝起きのオイルはかたい

  すり減った安全靴は最後まで私の足を守る気でいる

  配管が日差しにゆるみぴしぴしと金属が鳴るあくびのように

  毒キノコのごと赤々と盛り上がりどの装置にも非常停止ボタン

 

 工場のツールたちは、やわらかく擬人化されて描かれており、無機質な雰囲気がない。職場を同じくする仲間として描かれていて頼もしさすら覚える。かと思えば、四首目のように、危険を意識せざるをえない空間としてぎろりと歯を見せることもある。 

  

  フレコンの口を開ければきらきらと昨夜の雨のしずくが落ちる

  花びらは排水ピットにこぼれおち金網の下でしばしたゆたう

  煙突の影の桜は五日ほど遅れて花びらこぼし始める

  工場の凍結防止対策解除基準満たして冬が過ぎ去ってゆく

  金型の昇温時間長くなり実験室の季節が変わる

 

 また、「工場の中で働く」という目線から、工場に現れる天候や季節の変化がこまやかに抽出されている歌も多い。一首目、フレコンはフレキシブルコンテナバッグの略。粉末や粒状物の荷物を保管・運搬するための袋状の包材のこと。現場には雨が降っていたことをフレコンの口を開けるという「最初の仕事」で感じ取る。二首目、三首目、大きな影を作る煙突の下にある桜も工場の風景のなか、働く作者の視界の隅にしっかりと映り込む。四首目、五首目、凍結防止対策・金型の昇温時間など、日々の気温に合わせて変えていかなくてはならない仕事によって、ふと季節の移ろいに気づく。温度・光の量・空気などが「働く」という目線から捉えられることによって、読み手は歌を臨場感をもって読むことができる。

 

 先述した候補作のときに選考委員の議論にもなっていたが、当時わたしの印象に残ったのは子どものクールな歌い方である。自分の子どもというよりかは、「子ども」というものを距離をもって観察しているように思われる。

 

  抵抗をしない鳩だけ見極めて砂場の端まで子は追いかける

  どんぐりが通貨単位の商店に息子から買う虫の死骸を

 

 そういえば、歌集のなかには子どもを叱ったり、抱きしめたり、撫でたり、褒めたりする場面は歌われていない。むしろ、オムツの処理やお風呂などの動作がシンプルに描かれている。

 

 歌集全体を通じて「工場で働く」ということともう一つ「ジェンダー」もテーマになっている。工場のなか・会社のなか・社会のなかでの女性と男性の差が、皮肉をもって歌われているものも多かった。個人的には、皮肉をストレートに歌ったものよりも、作者がジェンダー的問題に直面し・行動した場面の歌のほうが共感の度合いが高かった。

 

  「妊娠の超初期症状」Googleに打ち込んでしばし待つ昼休み

  私だけ部下を持たない組織図は北極のような空白がある

 

 私も検索した。今妊娠したらいつから休まなくてはならないか(というか休むことはできるのだろうか)、今のプロジェクトは最後までやれるだろうか、体調はもってくれるだろうか、等々。しんとした昼休みの空気がずんと重くなる。

 ときおり会社や自分の所属する組織が、女性の自分を扱いあぐねているな、と感じる瞬間がある。組織図や名簿(それに付記されている役職とその順番)などは特に。

 

 あとがきを読むと、「肉体で向き合い、そしてそのまま消えてしまうその場その場の具体的なものを、短歌として残せたことはとても幸運でした。」と綴られている。今・目の前にあるものを肉体を通じて感じ・歌う。それが、臨場感のある歌の手触りを生み出していると思う。

 

  夏用の作業着の下をたらたらと流れる汗になる水を飲む

  工場にラジオ体操鳴り響く十五時の背中ぽきぽきと鳴る 

  神棚に頭を垂れる作業着の息の白さの濃く薄く濃く

  階段の手すりは必ず持つルール軍手で握る冷たい手すり

 

作業着の下の汗、ラジオ体操する体の感覚、呼吸、触覚とともに切り取られる労働の一場面が、つよくつよく印象にのこる。

 

 最後に、好きな歌(特に背を高くして付箋を貼ったもの)を。

 

(すきな歌)

  溶けていくバブを時々湯から出しバブの悲鳴やため息を聞く

  まばたきの分だけ私より長く世界を見ている私のメガネ

  哺乳瓶をガラスごみへと捨てる朝 走馬灯とはほんの一瞬

  フライパンにバターを落として溶けるまでふと長くなる十月の朝

  実験室の壁にこぶしの跡があり悔しいときにそっと重ねる

  グラフェンをはがす痛みにしいしいと息を漏らして鉛筆すべる

  エアバックが頭の中で次々に開いて眠れぬ夜の圧力

  発電所、樹脂工場にパン工場 煙がすべて南へなびく

 

 

 

 

(感想)第4回 dectet (テーマ:ジェンダー)

10人の歌人さんが発行している第4回「dectet」。毎回テーマを決めるMCさんがいて、そのテーマにしたがって3首連作が掲載されているのだそう。今回は、神丘風さん(@kmtrf4)がMCでテーマは「ジェンダー」。印象に残ったり、気になったりした歌を書いてみます。カッコ内は連作タイトル/作者名。

 

 

 

 

タロウって呼ばれてしっぽを振っているメスのこいぬは幸福そうだ

(「らしい」ってなんだよ/神丘風)

 

あぁ…これはおじいちゃんがノリ(愛)でつけちゃう名前…!と想像に易しい状況。

連作のタイトルからして「幸福そうだ」は皮肉を込めているのかもしれない。

でも子犬が喜んでいる(ように見える)のは名前のいかんよりも「まさに今自分が呼ばれている」という喜びなのかなと思う。性別にちぐはぐな名前だけど、名前、性別の云々の前に、その犬自身(その人自身)が求められることの喜びってあるよね。というのを感じた。

どうでもいいが、私も鼻たらしながらポケモンに没頭していたとき、捕まえたメグロコが最終的にワルビアルになると知って、勢いで「くみちょう(組長)」ってニックネームつけてしまったことがある。ワルビルに進化してからメスだって気づいたけど、四天王戦までつれてったよ組長。頼もしい仲間。

 

 

恋人にごはんを作って喜んだそんな自分も否定できない

( /諏訪灯)

 

自分のなかの混じり合うというかまだらというか、ジェンダー観に関するもやもやを歌っているのは、ネプリのなかで唯一この歌かなと思う。私も異性と付き合いはじめて、どんどんそういう方向に傾いていってる自分にもやっとしたことがある。自分でスカートを買ったのも、異性と付き合い始めてからだったな…。夫が料理をする様子を歌った二首目がすき。

 

 

性別を書く欄の中の空白に私のすきな人がいること

(花の色は/とうてつ)

 

性別の表し方(捉え方?)の中には、自分自身の性別に関する「性自認」とどんな性を好きになるかの「性的指向」がある。(と、勉強不足かもしれないが私なりに認識している…)

この「性的指向」も含めて自分です、と主張したい気持ちがこめられているのかなぁと読んだ。この歌でいうところの「すき」が性的指向の「すき」なのか、というのは私の解釈ミスかもしれない…。むむむ…自信がなくなってきた(笑)

自分は異性愛前提で友人と恋バナをしなくてはならないのが辛い時期があった。のを思い出しました。

 

 

 

短歌人 2020年3月号

歌人(2020年3月号)に掲載された5首。

 

 

立ち上がり両手を伸ばせばこの部屋の上空にある暖気が掴める

 

雨のなか最後に毛布を運び出し十一月に立ち退き終える

 

県営101と書けば手紙の届くこと県営住宅に名前がないこと

 

「解体が終わりました」と写真きて見れば地面に溝と雨水

 

長い坂をのぼれば出てくる鼻歌のたとえば『大脱走』のマーチ

 

 

※『大脱走

(だいだっそう、原題: The Great Escape)は、1963公開のアメリカ映画。戦闘シーンのない集団脱走を描いた異色の戦争映画。監督はジョン・スタージェス。出演はスティーブ・マックイーンジェームズ・ガーナーチャールズ・ブロンソンジェームズ・コバーンリチャード・アッテンボローデヴィッド・マッカラム など。

 

 


「大脱走マーチ The Great Escape March」

 

 

短歌人 2018年10月号

歌人(2018年10月号)より自作5首。

 

 

きみは鋏をわたしはラジオをたずさえて夏の畑へ歩き出す朝

 

満願寺とうがらしもらう結び目をほどくときに歌はうまれる

 

あの世まで来なくていいよと言いかけて桃畑にどっと風吹く

 

「のんでみる?」あなたがわらう 手があたる かちわりワインの赤のゆらゆら

 

臨月を迎える友のうつくしさ カリフラワーのまっしろな腕

(感想)角笛2

あけましておめでとうございますすす。

知己凛(@Chikorin7)さんが発行した短歌ネットプリント「角笛2」を読みました。いくつか気になった歌について読んだイメージやらなんやらを書いてみます。

 

スノードームの雪降りおえた静けさのもうなにひとつ美化するものか

 

穂崎円さんの「吹雪のあとに」と題された一連のなかの一首。熱意とか勇気とか希望とかそういうものとは対極にあるような、孤独に完結する「静かな決意」がキリリと立つイメージ。スノードームという閉じた世界の雪の動きが、覚悟が決まるまでの気持ちの波と、かかった時間を象徴するように感じる。「の」は、後ろに「なか」を脳内補てんして読んだけど合ってたのかな…

 

「また今度できそうだったらしましょう」とダンスみたいな次の約束

 

井倉りつさんの「12月29日」と題された一連のなかの最後の一首。作中主体は、この日、新大阪駅で座っていたところを拾われて、その人の家で一夜を共にする。翌日、あっさりとこの人に別れを告げられるシーン。「会いましょう」とかじゃなくて「しましょう」というところがぼやかされていて怖い。別れを告げられているのに「ダンスみたい」ときれいに感じてしまう気持ちはわかる。

 

ちょうど鮭、そう鮭みたいなセックスをしそうなところがほんとにいとしい

 

服部かほさんの歌。この歌の前提として話者は「普通セックスは生殖とは関係なく愉しみとしてするものだ」という考えている、と解釈した。鮭は命がけで溯上して、交尾のあとは死んでしまうから、解釈からすると引き合いに出すにしては極端な感じ。必死に(真剣に?)セックスするのを嗤っている話者のイメージ。そんなに真剣になるなんて可愛いなぁって。これが犬とか、オシドリとか、ボノボとかじゃなくて、鮭なんだよね。むしろドキュメンタリー番組を見るときみたいなある種の優しい(けど上から目線のような)なまざしを感じる。鮭と「いとしい」の取り合わせがすごく印象的。

 

読んだ感想ばかり書いてないで、お前も詠めよって話ですね。

うう・・・近いうちに詠みます。企画者さん頼りですが・・・。

(感想)いてうた2016

泳二(@Ejshimada)さんが企画・製作している「いてうた 2016」を読みました。いくつかの歌について感想を書いてみます。()内は作者名です。まだまだ短歌の感想を書くのに拙い部分があるかと思います。そういった箇所があればご指摘いただけると、柴犬は喜びます。

 

射手座Twitter短歌企画 いてうた 2016

 

 

それぞれの軌道をもつてガス灯をめぐる羽虫がこんなにも星(塾カレー)

 

羽虫のことをこんな風にみたことがなかったのですごく新鮮。
「こんなにも星」という終わり方が残す余韻が好きです。
虫の動きってぼやーっと眺めて模様のように見て「気持ちわるいな」って
思って終わることが多いのに、作者は「それぞれの軌道」ってくらいに
じっと見つめていて、そのまなざしが優しいな…と思う。

 


言葉とは断絶なりや空を求むバベルの塔は数限りなく(泳二)

 

バベルの塔って神話のなかではいくつあったんでしたっけ。
一つだったような。
言語が一つでないがゆえに空に届かない塔というニュアンスよりも
言葉というのはもともとすれ違いをおこす原因にもなる
がゆえに塔が競い合うようにいくつも立ってしまう、というイメージ。
諦観した感じと塔の数を上から眺めている感じがクールだけど切ない。

 


お宙からおとりよせした星屑の
オマケとしてのドライアイス(なな)

 

会社で隣の席のおじさんが一番気に入っていた一首。
「星屑はケーキなんかな!?うまそうやなぁ!」とのこと。
ドライアイスを保冷剤でイメージした様子。
地学には詳しくないですが、地球より寒い惑星だとドライアイスが地表にあったり
するですよね。たぶん。そしたら、惑星間の通販(貿易?)ができたら
それをこういう風に使うのかもしれない…。いいな…。

 


流星を探して首を痛めつつ涙のあとのきらきら星よ(大西久季)


上を向いて歩こう」が流れる感覚。
流星群観察に寮の屋上で粘った日がありましたが、確かにこれ首痛い…!
涙のすじと流れ星のすじが重なる感じがして好きです。
「つつ」での「きらきら星」への繋がりがどう受け取ったら正解なのか…
「あと」が「後」か「跡」かできらきら星の指すものが変わりそう。

 


午後9時の約束だけど流星に乗り遅れたのでごめん遅れる(柚木緑)


チャットモンチーでこういうポップな曲があったような。
「流星」が恋人(もしくは弟)の漕ぐ自転車の愛称だったら可愛いな。なんて。
素直にSFにとっても面白い。どっちにとっても物語が個々人で作れそうな気がする。